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「ノー」といえることは、成功者の条件である

「ノー」といえない人間は、成功者にはなりがたいものである。自分にとって不利であったり、好まないタイプの人間に対して、その近づいてくるのを阻止し得ない、つまり気の弱い人間は、とかく優柔不断になりやすく、果断を必要とする成功への道からは、はずれがちとなる。

しかしながら、その「ノー」のいい方がカドのあるいい方であり、いたずらに相手の感情を傷つけてしまうのも、これまた、ツキをおのれから遠ざけるやり方でもあるのだ。

ではどのようにして、円満に、それらの人から離れるのか?まず、自分にとって不利な人間について考えてみよう。 続きを読む 「ノー」といえることは、成功者の条件である

いやなタイプを遠ざけるな

自分にとって、いやな人間、嫌いなタイプであるからという理由だけて、それらの人々から遠ざかるべきではない。前項の「ノー」という場合は、あくまで、自分を利用しようとする打算のみの図々しい人間に対してである。

成功人間になるための秘訣の一つは、大なり小なり、自分に対する協力者をふやして行くことである。

たしかに、この世の中には、無神経な人間がいて、こちらが欲しもしないこと、またはものをもって、好意の押し売りをどんどんとしてくる人々もいる。 続きを読む いやなタイプを遠ざけるな

猜疑心は人生を不幸にする

「人を見たら泥棒と思え」式に、常に人にはだまされまいと用心怠りなく、警戒心をとがらせている人間に、大きな成功は訪れない。なぜなら、この方法は、たしかに他人からだまされることは少なくなるかも知れないが、それより、自分にツキを運んできてくれる良き人を、自分のもとから他方へ追いやってしまうからである。

人は、武装し、身構えた人に対しては、本能的に身がまえ、もう素直に接しようとはしなくなるものである。このように、内に猜疑心が満ちておれば、外面はいかにとりつくろっても、冷めたく暗い雰囲気は自然と外に発散されてくる。 続きを読む 猜疑心は人生を不幸にする

色々な人脈に触れて豊かな人間になれ

昔は無趣味で、商売以外に何の興味もなく、女性に対しても、石部金吉、木念人というのが、事業を繁盛させるタイプだと考えられていたものだ。しかし、現代は違う。これはなぜかというと、複雑混迷化した文明のせいである。昔は、米屋は米だけを、いかに多く売り、いかに多く利潤を上ければよいか、それに専念していればよかった。ところが、今日のように、目まぐるしく変る世相と、人々の好みは、社会的需要の品さえくるくると変えて行ってしまうのである。

かつて、ロングスカートやミニスカートを流行させたファッション界の仕掛け人は、もうその神通力を大衆の上に用いることは出来なくなり、幾つもの有名会社が倒産した。 続きを読む 色々な人脈に触れて豊かな人間になれ

本業以外で自己重要感を高めるな

しかしながら、情報収集がいかに大切だからといって、本業をおろそかにしてまで、たとえば社会的生活運動を主にしてしまって良い筈はない。それが趣味にしろ、社会運動にしろ、また何らかの人脈的パーティー運動にしろ、自分の喜びとするものに熱中するあまり、本業の方の、たとえば上司の意向に逆らったりしてはならないのは勿論である。

このように、社会の他の人間グループに入り、そこでの何かの役割りに熱中している人間の殆んどは、自己重要感の充足をそこで計っているものである。すなわち、本業の方で得られなかった、自己重要感をそっちの方で、うめあわせようと無意識的に演出、また行動するのだ。

まず相手を信用せよ

たとえ、自分に対し、不信の目を向けている相手に対しても、優しく、心を開いた態度で接するべきだ。相手がそのような態度をとるのは、心におびえを持っている証拠である。過去に何回か人に裏切られた体験を持つと、世の中じゅうの人間が、自分に向かってあだをなすような錯覚に捕われてしまうものだ。

そのような人は、かわいそうな人だと、まずいたわりの心をもって接することだ。基本的にいって、まず相手を信頼する態度から始めることは、成功人間になるためには必要なことである。そして、常に柔軟な姿勢を保ち、相手の出方次第で対応の仕方を変化させて行けばよいのだ。

短い休息を何回でもとれ

ナポレオンは、一日に三時間しか眠らなかったという。ただこれには少々秘密がある。それは、彼はたとえ五分間でも時間があると、即座に仮眠できるという特技があったのだ。

実際、忙しく、かつ精力的に働いている人は、眠り上手が多い。少しでも時間を見つけると、すぐゴロリと横になって眠り、十分ぐらいで、さっと目を覚まし、すぐ仕事にとりかかるというところがある。

昔、泥棒の言葉に「夜、人の家にしのび込むには、最初、雨戸をガタガタと動かす」というのがある。そして、家人は一旦、眼をさまし、何事もなかったと知ると、また眠りに落ちる。 続きを読む 短い休息を何回でもとれ

「私は内気である」という者は、自己中心型の怠け者だ

「私は気が弱い」とか「私は内気で」とかいう人は、結局のところ、自己中心型で、他人への配慮に欠けているだけのことかも知れない。たとえば、未知の人同志が顔を合わせば、おたがい、会話がとぎれて気まずい雰囲気にならないよう、話のタネを探すものである。

この時、その作業を相手側だけに任せて自分は楽をしようということだから、これは一種のエゴイズムであるといって差しつかえないと思う。話し下手は、下手なりに、相手に気を使わせないよう配慮するならば、何かの話題を用意しておくべきである。天気の話、その日の朝おきた事件、三面記事の犯罪、いろいろある。 続きを読む 「私は内気である」という者は、自己中心型の怠け者だ

過去に涙する者に成功者はいない

涙ながらに過去の苦闘時代を語る者に大成功者はいない。いたとしても、せいぜいそれは中小企業どまりの成功者である。大成功者に向かって、「あなたの成功の原因は?」と尋ねると、きまったように、こう答える。「運が良かったのです」彼らは決して、自分の知識や、努力、能力のせいだったとはいわない。ただ運が良かったというだけである。

では、彼らは努力をしなかったのだろうか?とんでもない。他人の何倍を上廻る努力は重ねられたのである。ただ、彼らはそれを努力と感じなかっただけなのである。彼らは、その仕事を楽しんでいたのだ。そして、得られた成功を、天からの大いなる恵みだと感謝しているのである。

感謝と喜びを自分の感情の中に入れよ

感謝と喜びを、人為的に自分の感情の中に生み出そうとする人間には、成功を得る資格がある。なぜなら、感謝と喜びの感情は、成功を得た時の感情と同類の中にあるものだからである。すなわち、それは「陽の類」の中にあるものだ。

これに反して、陰の類の中にありながら、知恵と力のみに頼り、他人を圧迫しながら得た成功者は、いずれは他人の裏切り、災害、病気などによるシッペ返しを喰うものである。なぜなら、裏切りも、災害も、病気もすべて、陰の類の中にあるものだからだ。願望は「顔」であり、成功は「果」である。そして「因果は同類による」これが、仏教に説かれた「因果律」なのである。

他人の言行不一致を責めるな

人は誰でも、自分なりの正義の念は持っている。そして殆んどの人は、一般的な道徳観念を持っている。しかし、それがしばしば、道徳律からはずれるのは、内心の欲求が、その道徳律と相反したものであり、そして内心の欲求が道徳律を打ち負かすことによって起るのである。

だから人は、しばしば、いっていること(道律的)と、やった結果(欲求的)が全然違ったものとなってしまうのである。これらの人の言行不一致を責めることは、危険な行為である場合が非常に多い。それは、ツキを自分から遠ざける要因にもなるのだ。 続きを読む 他人の言行不一致を責めるな

常に自分自身を刺戟せよ

目的の成功は一つであっても、そこへ到る道程は、さまざまに変化するものである。その変化とは、新しい試みへのチャレンジであり、絶えず、計画をねり直し、最も効率良い手段を工夫することである。このような行動に自分を駆り立てるものは、すなわち「欲望の火」である。

成功への燃えるがごとき情熱の火である。チャレンジャーは常に、明日を想い、その目は前方を見つめている。そして、常に何かやることを求めているのである。こういう人物に会うと、その人は何らかの刺戟や勇気を得ることになる。 続きを読む 常に自分自身を刺戟せよ