伏見稲荷の土にはご利益あり

京都の伏見稲荷も招き猫の発祥地という定説を持ちますが、調べてみると、少しばかり前三説とは異なっています。

伏見稲荷のある稲荷山の土は元々、持ち帰ると稲荷大社のご利益があるといわれており、古くから伏見稲荷周辺の住人は土を丸めて粒状にして売っていたそうです。

そのうち、土が土器になり、やがて土鈴や牛、馬などの土人形に変化、そのうちのひとつが右前足を耳まで掲げた猫だったというわけ。

ただ、伏見稲荷には養蚕の神様が祀られており、猫は蚕を食い散らす鼠の天敵であることから崇められ、同じ土人形でも養蚕の守護神として扱われていました。 続きを読む 伏見稲荷の土にはご利益あり

流政之氏の猫シリーズ

新宿住友ビルに太田道灌を救ったといわれる黒猫、玉ちゃんを作ったのは、世界的に有名な彫刻家の流政之氏。

流氏の作品「受」はMoMA(ニューヨーク近代美術館)の永久保存作品、つまりパーマネントコレクションとして収蔵されており、1967年のTIME誌では日本を代表する文化人の1人にも選ばれています。

1970年代に入ると日本でも注目され、神奈川県立近代美術館や東京海上日動火災ビルなどに作品を展示していますが、猫をモチーフにした作品はこの玉ちゃんだけでなく、他にもあります。

ニューヨークで「ストーンクレージー」を発表する前年、1963年には銀座4丁目の三愛ドリームセンターには「コイコリン」という一対の猫が置かれました。 続きを読む 流政之氏の猫シリーズ

流政之氏が作った黒猫の玉ちゃん

室町時代後期、江古田・沼袋原の戦いで太田道灌を救ったのは黒猫でしたが、その太田道灌が猫地蔵を奉納した自性院の招き猫はなぜか白猫です。

これを不憫に思ったのか、新宿住友ビルには黒猫の彫像が置かれています。

台座の説明文には誰にでも分かるように、平易な文章で太田道灌と黒猫のエピソードが書かれており、「名ものこらぬはふびん 江戸のいいたま 玉ちゃんと名づけ のちのちまで江戸のまもりとす」と最後をまとめています。

確かに作られた彫像は招き猫ではなく斜め上方を向き、手にはこれも艷やかな珠を大事そうに掲げています。

さて、これを作った人は誰かと見てみれば。

つくりびと 流 政之、と書かれています。 続きを読む 流政之氏が作った黒猫の玉ちゃん

本尊には太田道灌寄与の猫地蔵あり

自性院、自ら招き猫の発祥地、と言っているわけではなく、猫との関係は太田道灌の猫地蔵寄与にとどまっていますが、これだけ猫と浅からぬ関係があれば招き猫の発祥地と回りが騒いでも不思議ではありません。

回りが騒げば認知されたも同然、自性院では参道入口に大きな石像の招き猫を設置しています。

左前足を耳元まで上げ、右手で大判を押さえるという典型的な招き猫で、唯一、青い前掛けが猫の地蔵であることを証明しています。

寺院が奉納する招き猫もきちんと前掛けをしており、左右の前足を耳まで掲げた2対の土人形が用意されています。

この招き猫、祈祷済みを授与してくれるそうで、表に梵字、裏には自性院の文字、なぜか後頭部には横長の穴が空いており、いかにも500円玉を入れるとご利益がありますよ、と言っている感じです。 続きを読む 本尊には太田道灌寄与の猫地蔵あり

太田道灌を救った自性院の黒猫

招き猫起源説、3番目は現在の東京都新宿区にある自性院説です。

時代は徳川幕府からさらにさかのぼり、室町時代後期のこと。

当時の関東、武蔵国の武将といえば太田道灌が有名ですが、この太田道灌に対抗していた武将が豊島泰経で、江戸城を居とする太田道灌と石神井城を居とする豊島泰経の間で、江古田・沼袋原の戦いが行われました。

この戦い、戦略的に見るものがあるのですが、それを語り始めるとまた脱線してしまうので今回は割愛。

ともかく戦いで劣勢となった太田道灌、陽も暮れ始めた時、道に迷うとどこからともなく黒猫が表れ、手招きするので後をついていくと自性院に辿り着き、無事、一夜を過ごして体力と戦力を回復すると戦いを優勢に持ち込むことができたので、太田道灌は猫の地蔵尊を奉納したことが、自性院起源説のひとつとなりました。 続きを読む 太田道灌を救った自性院の黒猫

猫とツキと干支の性格

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