日本のCMにフュージョンバンドが出るという快挙

1990年代までフュージョンと呼ばれたジャズは現在、スムースジャズ(Smooth jazz)と名称を変えています。

歌詞のないインストゥルメンタルで聴きやすいことも日本で受けた要因のひとつでしょう。

この時代に流行ったフュージョンサウンドは今でもテレビ番組のBGMとして流れることがよくあります。

日本でもフュージョンバンドが多く誕生しました。

カシオペアやT-SQUARE、高中正義などはフュージョンバンドの代表格ですね。

バブル景気以降、フュージョンサウンドの魅力からジャズファンになった人も多くいます。 続きを読む 日本のCMにフュージョンバンドが出るという快挙

日本に深く浸透するフュージョンサウンド

1988年、青山に出店したジャズライブハウス、ブルーノートはその後、大阪や福岡にも出店しましたが、現在は青山以外に名古屋、それから横浜のモーションブルーヨコハマだけに留まっています。

当時、なぜ有名なフュージョンバンドを東京のライブハウスに呼べることができたのかといえば、もちろんバブル景気によるおかげでもありますが、フュージョン人気がもっとも高かったのは日本で、本国アメリカでは日本ほど稼げなかった、という現状がありました。

フュージョンは大きく分けてデイブ・グルーシンやリー・リトナーを中心とした西海岸派、リチャード・ティーやスティーブ・ガッドを中心とした東海岸派がありましたが、日本では西も東も関係なく、連日連夜、それらのミュージシャンが来日してくるのですから、ファンとしては狂喜乱舞の世界です。

この時代、日本のミュージシャンもフュージョンへの傾倒が多く見られ、また積極的にスタジオミュージシャンと共演しています。 続きを読む 日本に深く浸透するフュージョンサウンド

ブルーノート東京が開店

ニューヨークにあるジャズクラブ、ブルーノートが東京にチェーン店を出したのは1988年11月、バブル景気真っ最中のことです。

それまで日本のジャズクラブは一部のジャズファン以外には敷居の高い存在で、いかにもジャズを聞かせます、それ以外はおとなしくしていてくださいね、的な雰囲気があり、それがまたジャズ初心者のハードルを高くしていた要因でもありました。

元々、ジャズミュージシャンは儲かる仕事ではありません。

ただし技術や感受性は一流。

そこでポピュラーのシンガーはレコーディングの際、ジャズミュージシャンにスタジオ演奏を依頼していた経緯があり、それを依頼されたジャズミュージシャンはポピュラーの軽快さをジャズに取り入れました。 続きを読む ブルーノート東京が開店

日本に誕生したメセナ活動の支援団体

バブル景気の時に発足したアメリカズカップ・シンジケートのメセナ活動は企業広告の意味合いも強かったので、景気縮小と同時に消滅してしまいましたが、その後も企業におけるメセナ活動は地道に、もっと一般的な人たちに密着した本来の形で継続されています。

このメセナ活動を支援する形で作られたのが純民間団体である公益社団法人の企業メセナ協議会で、1990年、バブル景気崩壊後に誕生しました。

「即効的な販売促進・広告宣伝効果を求めるのではなく、社会貢献の一環として行う芸術文化の支援」をメセナの定義とし、メセナ活動を行う企業の紹介やパイプ役、さらに企業が個別に行ってきた文化事業に対して個々の利害を超えた立場で支援していくという取り組みを行っています。

企業が文化活動を支援するという取り組み、じつはフランスやドイツ、アメリカなどでは当たり前のように行われており、それらを支援する団体も古くから存在しています。 続きを読む 日本に誕生したメセナ活動の支援団体

ニッポン・チャレンジが残した夢

アメリカズ・カップに参加したニッポン・チャレンジの結果は無駄だったのでしょうか?

バブル景気の余ったオカネを浪費しただけでしょうか?

そんなことはありません。

アメリカズ・カップ参加以降、日本のヨット製造技術は格段に進歩しました。

アメリカズ・カップのクルーは経験が要求されるだけに新興国は外国人クルーで固められるのが当たり前の中、ニッポン・チャレンジは積極的に日本人クルーを採用、2007年の大会ではニュージーランドチームに日本人の鹿取正信氏が参加、日本人初のアメリカズ・カップ本戦出場を果たしています。

ニッポン・チャレンジが残した結果はしっかりと正の遺産となって受け継がれています。 続きを読む ニッポン・チャレンジが残した夢

猫とツキと干支の性格

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