忠言には危険性が伴う

古語に「面をおかして諌言する」という言葉がある。これは、臣下が王の不興をこうむるのを承知で忠言をなさんとすることだが、この「面をおかす」という意味は、考えてみるに、相手の面目つまりプライドをつぶしても、相手の間違いを正そうということだと思う。

この場合、臣下は王の激怒を買い、よく殺されてしまうのだが、臣下はその死を覚悟して諌言するのである。忠言、アドバイスという行為には、逃れられぬ一つの宿命的な副作用がともなう。

それは、相手の間違いを指摘する結果「あなたは愚かである」といわれているような感情を柏手に抱かせてしまうことである。これは当然、相手の自己重要感を低下させることになり、相手はその苦しみに悲鳴を上げる。すなわち、これがあなたに対する怒りである。

ところが、現代における忠言者は、この理に気つかない。それどころか、自分は良いことを相手に教えているのだから、相手は自分に感謝すべきである、などといった甘い期待を漠然と持ちながら、忠言をするのである。知らなければならないのは、忠言は常に「相手の面をおかす」という副作用がともなっていることである。

そして、もし、その忠言をするならば、昔の王の家来がしたような一つの覚悟が必要である。その覚悟とは、すなわち、自分に対する好意を失う可能性が十分にあり、もしそうなっても仕方ない、という覚悟である。そのような決心を必要とする場合は、人生においては、よくよくの場合であり、そうめったにあるものではない。多くの場合、忠言は、自分からツキを失わせる衰運の行為であると思って差しつかえない。

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