「星座占い」カテゴリーアーカイブ

中国に渡った占星術

ギリシャ占星術は中国にも渡来しています。

中国にもインド同様、独自の天文観測による占星術はありましたが、星の動きではなく日食や流星、新星の誕生など星々の現象を天が与える警告、儒教の災異説が元になっているものでした。

この災異説とは別に、約2000年前に誕生した六壬神課(りくじんしんか)はギリシャ占星術とインド占星術の影響を受けて確立された占星術といわれています。

天体を干支術の12支に割り当てていること、太陽の黄道上の位置の指標を月将と呼んでいること、天地盤と呼ばれるホロスコープに似た器具を使うことなどからも、その影響を推し量ることができますね。 続きを読む 中国に渡った占星術

西洋占星術の礎となったアラブ圏の占星術

キリスト教は十字軍の派遣でも分かるようにアラブの地域までは勢力が及びませんでした。

したがってギリシャ占星術はインドだけでなく中東のイスラム圏にも流入、8世紀頃から独自の文化を取り入れて発展していきます。

イスラム圏の占星術で特筆すべき人物はペルシャ人のアルブマサルこと、アブー・マーシャルです。

アリストテレスやプラトンといったギリシャの哲学者の知識を豊富に持つ当時の占星術第一人者といわれたアル・キンディに師事、マーシャルもギリシャ哲学を学び、アリストテレスの「自然学」や「天体論」を占星術と融合させたことが偉業として伝えられています。 続きを読む 西洋占星術の礎となったアラブ圏の占星術

12世紀ルネッサンスで脚光を浴びる占星術

一度はヨーロッパから姿を消した占星術が再び脚光を浴びるのは12世紀に入ってから。

14世紀に始まったルネッサンスは主にギリシャやローマ時代の文化を復興しようという運動ですが、その胎動はすでに12世紀に始まっており、占星術はそのひとつでした。

ルネッサンスには「再生」や「復活」という意味があり、14世紀のイタリアで起きた大々的なルネッサンスと区別する意味で、12世紀に始まった古典・古代復興を「12世紀ルネッサンス」と呼びます。

ルネッサンスが活動として盛んになった背景には、キリスト教の1000年に渡る支配下によってギリシャ・ローマ文化が破壊され、その後、文化的な成長がまったく見られない暗黒の時代が築かれたことがあります。 続きを読む 12世紀ルネッサンスで脚光を浴びる占星術

限定付きで占星術を容認したキリスト教

12世紀に入ってルネッサンス活動から再び脚光を浴びた占星術は、この時代においてもまたキリスト教から否定されましたが、時代はすでにキリスト教がヨーロッパを支配下に。

少なくともヨーロッパにおいては異端宗教がキリスト教を脅かすことがないため、2世紀に占星術を排除したような表だった活動は行われませんでした。

キリスト教から見れば、キリスト教の脅威とならない限り占星術は害のない存在であり、当時の占星術は天文観察という側面を持つアカデミックな要素もあったことからキリスト教徒の中には占星術の「一部」は認めるという人も表れてきます。 続きを読む 限定付きで占星術を容認したキリスト教

コペルニクスも占星術師

12世紀ルネッサンスによってヨーロッパの舞台に再登場した占星術は、キリスト教から一部容認というお墨付きを与えられたことにより、17世紀までアカデミックな存在として広く認知されました。

アカデミックな存在に高めたのは占星術師単独の存在ではなく、当時の最高学問であった科学者や哲学者が天文学と占星術を結びつけ、自ら占星術師と名乗ったことが大きな要因です。

たとえばニクラウス・コペルニクス。

ポーランド出身の天文学者であり、当時の天文学では常識とされていた地動説を覆し、天動説を唱えた学者として後世に名を残しましたが、彼は学者であると同時にキリスト教のカトリック司祭であり、また占星術師でもありました。 続きを読む コペルニクスも占星術師

地動説の発見は暦の積み重なったズレから

地動説を唱えたニクラウス・コペルニクスは天文学者や医者などの肩書の他に占星術師としても活躍していました。

その彼が地動説を発見したのは占星術を極めるために天文観測を突き進めた結果と言えます。

前項では天文学と深い関わりのある暦について触れました。

当時、使われていたユリウス暦は1年を365.25日と定めて4年に1回、閏年を設けていました。

しかし実際の太陽暦はユリウス暦よりもやや短く、現在のグレゴリオ暦では365.2425日とされています。 続きを読む 地動説の発見は暦の積み重なったズレから

当初は信頼度が薄かった地動説

コペルニクスの地動説によってユリウス暦はグレゴリオ暦に変わりますが、これはコペルニクスの地動説が採用されたというワケではなく、あくまで1年の実質日数の誤差を修正するという目的で、ローマ教皇グレゴリウス13世が制定したことから、暦の名前に使われています。

コペルニクスの地動説は当時、ほとんど世論から受け入れられていませんでした。

地動説をまとめた「天体の回転について」の著書はコペルニクスが死の直前に発表されましたが、惑星の正確な動きまでは把握できておらず、また地動説を体感できる証拠が何も上げられなかったことに因ります。 続きを読む 当初は信頼度が薄かった地動説

ケプラーもまた占星術師

太陽系の惑星にはそれぞれ公転周期があります。

この公転周期によって地球から見られる惑星の位置が異なり、占星術の元になるわけですが、公転周期が違えば当然、地球から見て(長い年月の間に)他の惑星が逆行運動することもあります。

天動説ではこれを太陽の動きということで解決してきましたが、天文観測を盛んに行うと地動説を採択した方が惑星の公転周期を理論上、説明できることが判明しましたが、それでもコペルニクスの地動説では惑星が円周期であるという解釈から抜け出せなかったため、惑星の逆光運動に対する理論に説得力が欠けていたことから地動説は受け入れられることがありませんでした。 続きを読む ケプラーもまた占星術師

肉眼観測では最高の精度を持っていたティコ・ブラーエ

神学を学ぶほど熱心なキリスト教信者でしたが、プロテスタントであったことからフェルディナンド2世神聖ローマ皇帝から追放されたヨハネス・ケプラーはデンマークの天文学者、ティコ・ブラーエの元で助手としての職を得ます。

ティコ・ブラーエもまた占星術師でした。

ティコの偉業は彗星と超新星ついての観測結果で、これらの発見・現象は月よりも遠方で起きていることを証明しました。

しかし天動説では月より遠方ではいかなる現象も起きないというのが定説であったため、ティコは地動説をあえて否定、太陽は地球の回りを公転し、その太陽の回りを惑星が公転しているという、修正天動説を提唱していました。 続きを読む 肉眼観測では最高の精度を持っていたティコ・ブラーエ

望遠鏡を多用して地動説に説得力を持たせたガリレオ

科学者であり、占星術師であり、そして熱心なキリスト教信者であったコペルニクスとケプラーによって天動説が地動説に覆されたのは歴史のアイロニーと言うしかありませんが、この地動説を揺るぎない存在としたのがイタリアのガリレオ・ガリレイです。

彼は哲学者であり、物理学者であり、天文学者であり、熱心なカトリック信者でしたが占星術師ではありませんでした。

ガリレオもケプラー同様、コペルニクスの地動説を擁護していましたが惑星の円周期という固定観念から抜け出せなかったために研究が停滞していました。

しかしケプラーが惑星の運行法則を発見したことにより、ケプラーに支持の書簡を送るなど自らの研究に拍車をかけます。 続きを読む 望遠鏡を多用して地動説に説得力を持たせたガリレオ

それでも残る地動説の矛盾

ガリレオの発見は地動説の矛盾を正当化させていきます。

天動説派は地球が動くなら月は取り残されてしまうだろう、という疑問に対して木星の周囲を回る衛星の証拠を示し、金星が太陽の惑星で公転しているからこそ、月のように満ち欠けし、楕円軌道を描いているから目視の大きさが変わるのだ、と立証しました。

それでもなお、天動説派は地球が動くならば空に放り投げた石が真下に落ちるのか、空を飛ぶ鳥がなぜ取り残されないのか、なぜ地球は自転し続けるのか?という疑問を地動説派に投げかけます。

ガリレオは慣性の法則を実験で示しますが、その現象がなぜ起きるのか?という疑問には答えることができませんでした。 続きを読む それでも残る地動説の矛盾

ニュートンの万有引力が地動説を確立させる

ケプラーの法則とは、

1.惑星は太陽を焦点として楕円軌道を描く(第一法則)
2.惑星は太陽に近い軌道では惑星は速くなり、遠いところでは遅くなる(第二法則)
3.惑星が太陽を1周する時間の2乗は惑星と太陽の平均距離の3乗に比例する(第三法則) です。

当時、天文学者や占星術師の間でケプラーの法則は広く知られていましたが、なぜ惑星がこのような動きをするのか、誰にも説明がつかず、地動説を裏付ける発見をしたガリレオさえも根本的な解決理論を見つけることができませんでした。

これを解明したのがアイザック・ニュートンの万有引力です。 続きを読む ニュートンの万有引力が地動説を確立させる