「あせり」こそ不幸の元兇である

「おそらく大罪はたった一つ・・焦燥である。焦燥のために、われわれは楽園を追われた。そして今、焦燥のために、われわれは楽園に帰ることができない」実存主義文学の先駆者、フランツ・カフカの言葉である。「あせり」この言葉こそ、私たちの成功、いや全人生までを暗く色とる不幸の元兇のように思える。

「健康的な意欲」と「煩悩執着」との違いはどこにあるのだろうか?多くの人々は、これを「欲望の大きさ」のように錯覚しているが、これはとんでもない間違いである。「一億円貯めよう」と「一千万貯めよう」と目指す両者において、その目標が大きすきる前者の方が煩悩執着であって、後者の方が健康的な意欲であるという訳ではない。

要はその目的の大きさにあるのではなく、それを目指した人の心の在り方にある。すなわち、未来の希望を夢にえがき、燃えるがごとき欲望をかきたて、毎日を張り切って生きるものと、思ったようにことが運ばない状能をのろい、また「あせり」ながら暗い気分で生きるものとの違いである。

同じ目的を持った二人がここに居る。たとえば、百万円貯めようとしている若いサラリーマンとしよう。二人は、毎月三万円貯金しようとしている。ところが、その月は出費が重なり、一万円しか貯金できなかった。すると、一人は「ともかくも一万円は確保できた。ありがたいことだ」と喜び、もう一人は「ちくしょう!たった一万円しか残せなかった」といって嘆くのである。

百万円への道において、幸と不幸の分かれ目は、目標へのあせりがあるかないかによって定まる。希望に燃え、それに励むことは必要であるが、あせりは現在を不幸にすることを忘れてはならない。

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