日本の陰陽師はその後どうなった?

日本独自の陰陽五行説を司る陰陽師はその後、紆余曲折します。

これが本格的な風水の定着を拒む要因にもなりました。

平安時代に入ると貴族や朝廷は悪霊や厄災から逃れるために陰陽師を大切に扱い、また陰陽師もあらゆる悪霊や厄災を取り払うために儒教や密教の呪術を身に着け、超能力者のような存在になります。

陰陽師はやがて地位を高めていきますが、やがて武家社会が台頭するようになると陰陽師は公家社会だけに影響を与える存在まで没落していきます。

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武家社会に登場してくる多くの武将は公家と無縁だったため、陰陽師の信用性が薄くそれぞれ独自の信仰に頼っていたことが陰陽師の衰退につながりました。

その象徴ともいえるのが豊臣秀吉の陰陽師大量弾圧です。

豊臣家の跡を次ぐはずだった甥の秀次が秀吉によって切腹を命じられた際、当時の陰陽師の頭的存在だった土御門久脩が秀次の祈祷を行ったという理由で尾張国に流されると、平安時代に頂点を極めた陰陽師はほとんど終焉を迎え、残った陰陽師は民間信仰を行う呪術者になり、山伏などと同じ胡散臭いイメージだけの存在となりました。

明治時代になると、明治政府は西洋思想を積極的に取り入れる姿勢からさらに陰陽師の排除に乗り出します。
かくして、日本には陰陽五行説が形として残ったものの、それを術として操る陰陽師の存在は表舞台から姿を消しました。

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