詰めを誤って短期間に終わった明智光秀の天下

「わしは1000人の頭になることくらいで終わるつもりはない、もっと大きくなる」

話を元に戻して明智光秀の名言。

これは明智光秀が20歳頃、大黒天の像を拾ったところ、家臣が「大黒天を拾うと1000人の頭になれる」と言ったことに対して発した言葉で、その後、大黒天を捨ててしまったという逸話が残っています。

若い頃は野心家だったようですが信長の家臣となってからはその影を潜め、徹底した忠誠心を示していました。

それほど忠誠心を示した明智光秀がなぜ謀反を起こしたのか謎のまま、謀反に際しての史料が一切ないので動機に関しては憶測に過ぎません。 続きを読む 詰めを誤って短期間に終わった明智光秀の天下

戦場ではつねに最前線で戦っていた豊臣秀吉

「いつも前に出ることがよい、そして戦のときでも先駆けるのだ」

明智光秀が織田信長を討ったとの一報を聞いた羽柴秀吉は、備前高松城の戦いの場から約10日間、約200kmの行軍の後、山崎の戦いで明智光秀の軍を撃破しています。

この軍移動は「中国大返し」と呼ばれ、戦国史上屈指の大強行軍として有名ですね。

あまりに素早い行動から信長暗殺計画は羽柴秀吉が立案したのではないか、と言われたほどです。

冒頭の名言はのちに豊臣秀吉となった羽柴秀吉が発した言葉です。 続きを読む 戦場ではつねに最前線で戦っていた豊臣秀吉

史上最大の水攻め作戦

「戦わずして勝ちを得るのは良将の成すところである」

豊臣秀吉は戦場においてスピード感のある戦い方ができると同時に、兵を使わず金を使ってじっくりと相手を落とす戦術にも長けていました。

たとえば明智光秀が織田信長急襲した時に遠征していた備中高松城の戦い。

高松城は周囲が湿地帯という条件の珍しい城のため、騎馬や歩兵が攻めづらいという利点を持っていました。

そこで秀吉、近くの足立川に堤防を作って流れを堰き止め、氾濫させて高松城周囲を水浸しにするという突拍子もない作戦に出ます。 続きを読む 史上最大の水攻め作戦

20万以上の兵を集めて北条氏を征伐

「財産を貯め込むのは良い人材を牢に押し込むようなものだ、世が安らかになるのであれば、わしはいくらでも金を使う」

これも豊臣秀吉の名言ですね。

これを実際に行ったのが小田原征伐でしょう。

関東平定を行っていた北条家を倒せば、ほぼ全国統一を果たすことになった豊臣秀吉は傘下の諸大名を総動員、その数約20万という兵力を上げて北条家征伐に向かいます。

北条側も豊臣方が攻めてくることを予想、本丸の小田原城に関東武将の精鋭を集め、山中城や松井田城、韮山城など支城を固めますが、圧倒的な兵力に抵抗する術がなく、大軍進行からわずか2ヶ月余りで小田原城を陸と海から包囲、そのまま持久戦に持ち込み、約1ヶ月後に開城しました。 続きを読む 20万以上の兵を集めて北条氏を征伐

秀吉の信長に対する見解とは?

「信長公は勇将であるが良将ではない。剛を持って柔に勝つことを知ってはおられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。ひとたび敵対した者に対しては、 怒りがいつまでも解けず、ことごとく根を断ち葉を枯らそうとされた。だから降伏する者をも誅殺した。これは人物器量が狭いためである。人には敬遠され、衆 から愛されることはない」

これも豊臣秀吉の名言のひとつです。

確かに信長は理想主義でプランを実現するための策には長じていましたが、配下との関係はビジネスライクであったことから高い信頼関係は築けず、また敵対する者の一家残党まで誅殺するのは将来的に謀反を起こさせないための措置でした。 続きを読む 秀吉の信長に対する見解とは?

井伊直政を高く評価していた徳川家康

戦国武将が「おんな城主 直虎」から離れつつあるので元に戻しましょう。

直虎が育てた井伊家の嫡男、虎松(のちの井伊直政)を小姓にした徳川家康の名言です。

「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある」

家康は家臣を高く評価することはあまりありませんでしたが直政は別格で、家康の三男で後継者となった秀忠の妻、お江に宛てた手紙の中で、「井伊直政という男は日頃こそ冷静沈着で口数が少なく何事も人に言わせて黙って聞いているが、局面では的確に意見を述べる。とくに自分が考え違いをしている時は余人がいないところで物柔らかに意見してくれる」と述べています。 続きを読む 井伊直政を高く評価していた徳川家康

合戦の勝ち数と勝率はともにランキング外

「人は負けることを知りて、人より勝れり」

戦国武将の合戦における勝ち数、勝率は合戦の規模にもよるので一概には言えませんが、やはり勝ち数では織田信長や豊臣秀吉が圧倒的に多く、勝率では武田信玄や上杉謙信が上位にランクインします。

徳川家康は最終的に征夷大将軍となって全国を統一、約460年続く江戸時代の基礎を作り上げましたが、合戦においては勝ち数、勝率ともに名だたる戦国武将の中では下位に甘んじています。

徳川家康の敗戦の中でも有名なのが三方ヶ原の戦いです。 続きを読む 合戦の勝ち数と勝率はともにランキング外

長男切腹を仕向けた信長に私財を投じて接待

「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」

信長のように百戦錬磨というわけではなく、また豊臣秀吉のように潤沢な財力で相手を圧倒させるわけでもなかった徳川家康が最期に天下人となれた理由は、やはり「忍耐力」でしょう。

信長、秀吉とは戦国大名として対等な立場でありながら正面から対抗することなく、臣下としての立場に甘んじていました。

もちろん信長も秀吉も家康の戦国武将としての高い資質を認めていたからこそ臣下にしたわけですが、両者ともかなりあくどい挑発的なことを家康に行っています。

たとえば信長。 続きを読む 長男切腹を仕向けた信長に私財を投じて接待

秀吉の陣羽織を所望して臣従態度を表明

「戦いでは強い者が勝つ、辛抱の強い者が」

これも徳川家康の忍耐強さを表した名言でしょう。

織田信長が本能寺の変で謀殺された後、その首謀者である明智光秀を討った羽柴秀吉が覇権争いの中心的な人物になっていきます。

織田家後継者争いで、信長生前より後継者に指名されていた信忠(本能寺の変で自害)の嫡男、信秀を推す秀吉に対して家康は信長の次男、信雄と接近して対抗するようになりました。

織田家の代理戦争ですね。 続きを読む 秀吉の陣羽織を所望して臣従態度を表明

いつの世も嫁と姑はトラブルの元

21の項で織田信長が徳川家康に長男の切腹と正室の殺害を仕向ける逸話を紹介しましたが、これにはいくつかの真相があると推察されているので、ちょっと余談として説明しましょう。

信長と家康は清洲同盟を結んでおり、その契として信長の娘である徳姫と家康の長男である信康は9歳の時に結婚させられています。

子供のうちは良かったのですが、成長する同時に勃発するのが嫁・姑の問題。

徳姫は今川家の血統を引く正室の築山殿との相性が悪かったらしく、さらに信康とも不仲になったことから家康の重臣である酒井忠次に、信康と築山殿は武田家に内通しているという手紙を父である信長へ渡すように託します。 続きを読む いつの世も嫁と姑はトラブルの元

合議制を取り入れて家臣から信頼を得た武田信玄

織田・徳川の清洲同盟という当時では最強の軍団でさえも、その進撃を止めることはできなかったのが、武田信玄率いる武田軍でした。

その武田軍の強さを象徴する信玄の名言がこれ。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

もうひとつ続けて。

「信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ」

どちらも臣下に対する信頼性を表した言葉ですね。

策略や財力、忍耐力よりも人材を重宝した信玄らしい名言といえるでしょう。 続きを読む 合議制を取り入れて家臣から信頼を得た武田信玄

上杉謙信がいたからこそ優れた武将になれた信玄

「勝敗は六分か七分勝てばいい、八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる」

これも武田信玄の名言で、戦略における象徴的な言葉でしょう。
端的な例が越後の戦国大名、上杉謙信と数次に渡った北信濃の覇権争いです。

合戦は一般的な説として第五次まで行われ、そのうちもっとも激しかった第四次が川中島で行われたことから、武田・上杉の合戦すべてが川中島の戦いと語られることもあります。

それまで両者の配下による散発的な戦いであった合戦は第四次で全面衝突となり、武田勢約4000人、上杉勢約3000人の死者を出した結果に終わり、以後、信玄は上杉家との戦いを避け、上洛を目指す西上作戦に出ます。 続きを読む 上杉謙信がいたからこそ優れた武将になれた信玄

猫とツキと干支の性格

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