厄年に説得力をつけた陰陽説

江戸時代、厄年に関するダブルミーニングをつけたのは 田宮仲宣だけではありません。

随筆家、林自見の「雑説嚢話(ざっせつのうわ)」には「俗に女は33を厄とする。女は産を大厄とすれば、33の産の声を重ねるが故、厄年とする」と書いています。

また考証随筆として有名な「燕石雑志(えんせきざっし)」になるとダブルミーニングだけでなく、その上に陰陽を重ねるという説得力を加えています。

たとえば「42歳は4も2も陰数であり、読んで死となることから男性はもっとも恐れ、33は陽数が重なり、事の敗続するのを散々といい、さんざんと同訓であるから女性はもっとも恐れる」との記述が見られます。 続きを読む 厄年に説得力をつけた陰陽説

男は42(しに)女は33(さんざん)の厄年

和漢三才図会は正德2年(1712)に刊行されていますが、それより遡ること約15年の元禄10年(1697年)頃、尾張藩士で国学者の天野信景(あまのさだかげ)は全千巻にも及ぶ随筆集「塩尻」で厄年に触れており、14巻には「42は四二になり、死に通ず、我が国では男42、女33、異邦7歳、16歳、34歳…」と著述しています。

直接に厄年、とは書いていませんが、ここで異邦7歳、と書いていることにより、和漢三才図会における厄年の7歳と合致するので厄年であることが伺えます。

ちなみに異邦とは中国のことですね。

ここで注目したいのは42歳がしに、と読めることから縁起が悪い、と言っていること。 続きを読む 男は42(しに)女は33(さんざん)の厄年

江戸時代に明記された厄年が現代まで継承されている

和漢三才図会に出てくる厄年は以下のように記述されています。

「厄~ 按素問陰陽二十五人篇云 件歳皆人之大忌 不可不自安也 考之初七歳以後皆加九年」

カンタンに言えば、陰陽では25歳がすべての人の大忌に当たり、誰もが注意しなさい、厄年は7歳に始まり、以後は9年を足していく、というような意味ですね。

この解説は明の三才図会が元になっており、上記の部分もそこから引用しているものです。中国では厄年を自分の干支から数えますが、明の時代の百科事典では陰陽発想から生まれていることが興味深いところです。 続きを読む 江戸時代に明記された厄年が現代まで継承されている

江戸時代は和漢三才図会に登場

前投稿では厄年の初出は平安時代の古辞書「 色葉字類抄(いろはじるいしょう)」ではあるけれど、現代に通じる厄年ではなく、社会的に重要な役目となる歳、役年ではないか、という説を記しました。

しかし江戸時代に入ると、それまでのあらゆる文化が庶民レベルで理解できるように変化しており、厄年に関してもその例外ではありません。

まず江戸時代で厄年が最初に出てくる著述は「和漢三才図会(わかんさんさいずかい)」です。

カンタンに言うと江戸時代の百科事典で、当時の中国、明(ミン)の類書「三才図会」を手本にして作られました。 続きを読む 江戸時代は和漢三才図会に登場

色葉字類抄に記されていた厄年は役年?

陰陽道は平安時代、いわば貴族以上が使っていた占いなので庶民にはほとんど関係ありません。

その厄年は陰陽道から始まったという説の有力候補は日本のいろは引きで最古の辞書と言われる「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に記述があるからですが・・

確かに漢字は厄と書かれているものの、男女における厄年の違いはなく、13、25、37、49、61…と12歳刻みで厄年が訪れるため、中国の生まれた干支が厄年というパターンと似通っています。

鎌倉時代でも厄年は平安時代を引き継いでおり、現在の厄年になるのは江戸時代になってからのこと。 続きを読む 色葉字類抄に記されていた厄年は役年?

猫とツキと干支の性格

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