「夜空の占星術」カテゴリーアーカイブ

コペルニクスも占星術師

12世紀ルネッサンスによってヨーロッパの舞台に再登場した占星術は、キリスト教から一部容認というお墨付きを与えられたことにより、17世紀までアカデミックな存在として広く認知されました。

アカデミックな存在に高めたのは占星術師単独の存在ではなく、当時の最高学問であった科学者や哲学者が天文学と占星術を結びつけ、自ら占星術師と名乗ったことが大きな要因です。

たとえばニクラウス・コペルニクス。

ポーランド出身の天文学者であり、当時の天文学では常識とされていた地動説を覆し、天動説を唱えた学者として後世に名を残しましたが、彼は学者であると同時にキリスト教のカトリック司祭であり、また占星術師でもありました。 続きを読む コペルニクスも占星術師

地動説の発見は暦の積み重なったズレから

地動説を唱えたニクラウス・コペルニクスは天文学者や医者などの肩書の他に占星術師としても活躍していました。

その彼が地動説を発見したのは占星術を極めるために天文観測を突き進めた結果と言えます。

前項では天文学と深い関わりのある暦について触れました。

当時、使われていたユリウス暦は1年を365.25日と定めて4年に1回、閏年を設けていました。

しかし実際の太陽暦はユリウス暦よりもやや短く、現在のグレゴリオ暦では365.2425日とされています。 続きを読む 地動説の発見は暦の積み重なったズレから

当初は信頼度が薄かった地動説

コペルニクスの地動説によってユリウス暦はグレゴリオ暦に変わりますが、これはコペルニクスの地動説が採用されたというワケではなく、あくまで1年の実質日数の誤差を修正するという目的で、ローマ教皇グレゴリウス13世が制定したことから、暦の名前に使われています。

コペルニクスの地動説は当時、ほとんど世論から受け入れられていませんでした。

地動説をまとめた「天体の回転について」の著書はコペルニクスが死の直前に発表されましたが、惑星の正確な動きまでは把握できておらず、また地動説を体感できる証拠が何も上げられなかったことに因ります。 続きを読む 当初は信頼度が薄かった地動説

ケプラーもまた占星術師

太陽系の惑星にはそれぞれ公転周期があります。

この公転周期によって地球から見られる惑星の位置が異なり、占星術の元になるわけですが、公転周期が違えば当然、地球から見て(長い年月の間に)他の惑星が逆行運動することもあります。

天動説ではこれを太陽の動きということで解決してきましたが、天文観測を盛んに行うと地動説を採択した方が惑星の公転周期を理論上、説明できることが判明しましたが、それでもコペルニクスの地動説では惑星が円周期であるという解釈から抜け出せなかったため、惑星の逆光運動に対する理論に説得力が欠けていたことから地動説は受け入れられることがありませんでした。 続きを読む ケプラーもまた占星術師

肉眼観測では最高の精度を持っていたティコ・ブラーエ

神学を学ぶほど熱心なキリスト教信者でしたが、プロテスタントであったことからフェルディナンド2世神聖ローマ皇帝から追放されたヨハネス・ケプラーはデンマークの天文学者、ティコ・ブラーエの元で助手としての職を得ます。

ティコ・ブラーエもまた占星術師でした。

ティコの偉業は彗星と超新星ついての観測結果で、これらの発見・現象は月よりも遠方で起きていることを証明しました。

しかし天動説では月より遠方ではいかなる現象も起きないというのが定説であったため、ティコは地動説をあえて否定、太陽は地球の回りを公転し、その太陽の回りを惑星が公転しているという、修正天動説を提唱していました。 続きを読む 肉眼観測では最高の精度を持っていたティコ・ブラーエ

望遠鏡を多用して地動説に説得力を持たせたガリレオ

科学者であり、占星術師であり、そして熱心なキリスト教信者であったコペルニクスとケプラーによって天動説が地動説に覆されたのは歴史のアイロニーと言うしかありませんが、この地動説を揺るぎない存在としたのがイタリアのガリレオ・ガリレイです。

彼は哲学者であり、物理学者であり、天文学者であり、熱心なカトリック信者でしたが占星術師ではありませんでした。

ガリレオもケプラー同様、コペルニクスの地動説を擁護していましたが惑星の円周期という固定観念から抜け出せなかったために研究が停滞していました。

しかしケプラーが惑星の運行法則を発見したことにより、ケプラーに支持の書簡を送るなど自らの研究に拍車をかけます。 続きを読む 望遠鏡を多用して地動説に説得力を持たせたガリレオ

それでも残る地動説の矛盾

ガリレオの発見は地動説の矛盾を正当化させていきます。

天動説派は地球が動くなら月は取り残されてしまうだろう、という疑問に対して木星の周囲を回る衛星の証拠を示し、金星が太陽の惑星で公転しているからこそ、月のように満ち欠けし、楕円軌道を描いているから目視の大きさが変わるのだ、と立証しました。

それでもなお、天動説派は地球が動くならば空に放り投げた石が真下に落ちるのか、空を飛ぶ鳥がなぜ取り残されないのか、なぜ地球は自転し続けるのか?という疑問を地動説派に投げかけます。

ガリレオは慣性の法則を実験で示しますが、その現象がなぜ起きるのか?という疑問には答えることができませんでした。 続きを読む それでも残る地動説の矛盾

ニュートンの万有引力が地動説を確立させる

ケプラーの法則とは、

1.惑星は太陽を焦点として楕円軌道を描く(第一法則)
2.惑星は太陽に近い軌道では惑星は速くなり、遠いところでは遅くなる(第二法則)
3.惑星が太陽を1周する時間の2乗は惑星と太陽の平均距離の3乗に比例する(第三法則) です。

当時、天文学者や占星術師の間でケプラーの法則は広く知られていましたが、なぜ惑星がこのような動きをするのか、誰にも説明がつかず、地動説を裏付ける発見をしたガリレオさえも根本的な解決理論を見つけることができませんでした。

これを解明したのがアイザック・ニュートンの万有引力です。 続きを読む ニュートンの万有引力が地動説を確立させる

科学革命を起こした4人の科学者たち

12世紀ルネッサンスで復興した占星術は、その後、占星術を極めるほどに天体観測が唯物的になり、運勢を決める要素という神秘的な存在ではなくなっていくという皮肉な結果を残します。

コペルニクスもケプラーも宗派は違えど熱心なキリスト教信者であり、占星術師でしたが、彼らが唱えた地動説を確固たる地位に押し上げたガリレオやニュートンは占星術師ではなく、純粋な科学者でした。

科学の発展は以後、占星術と天文学を結びつけることはなく、占星術は他の八卦や風水などと共に「占い」という範疇にまで縮小していきます。

反対にコペルニクス、ケプラー、ガリレオ、そしてニュートンは中世における科学開拓者として名を残し、現代においてもその偉業を讃えて彼らの名前はさまざまな機器に使われています。 続きを読む 科学革命を起こした4人の科学者たち

キリスト教が地動説を容認した理由

キリスト教が天動説を放棄、地動説を承認したのは意外に新しく1992年のことです。

すでに人類が月に降り立ってから33年後、ガリレオの死から359年後のことで、それもガリレオの異端決議を解く際の補足という形で表明されました。

ついでに言えば進化論に対しても1996年にローマのカトリック法王が認める声明を出しています。

といっても「神は進化という手段を用いて創造という御業を行われた」という注釈がつくので、生物単体における遺伝的進化までは認めたわけではないのですが。 続きを読む キリスト教が地動説を容認した理由

ガリレオだけが異端扱いされた宗教裁判

なぜ、ガリレオ・ガリレイだけが宗教裁判にかけられたのでしょうか?

その背景にはガリレオとキリスト教の個人的な政治事情が複雑に絡んでおり、キリスト教の総意として宗教裁判が行われたわけではありませんでした。

ガリレオの宗教裁判は2回行われています。

第一回目では地動説を唱えるガリレオに有罪判決が下りますが、とくに刑罰があったわけではなく、地動説はあくまで仮説であり、絶対的真理ではないと注釈をつけることが求められ、この条件さえクリアすれば研究を続けてもよい、という緩やかな判決でした。 続きを読む ガリレオだけが異端扱いされた宗教裁判

無限宇宙を唱えたジョルダーノ・ブルーノ

確かにガリレオ裁判の後、科学者や天文学者の間ではコペルニクス体系(つまり地動説)を支持する空気は弱まり、地動説に関するコペルニクスやケプラーの書物は閲覧禁止状態になりましたが、地動説に関して科学者達が消極的になったのはガリレオ裁判ではなく、むしろジョルダーノ・ブルーノ裁判の方が大きな影響を与えたといえるでしょう。

イタリア出身のジョルダーノ・ブルーノはドミニコ会の修道士でしたが次第に学問に目覚め、天文学と哲学において目覚ましい業績を残しました。

しかし哲学、天文学ともにキリスト教の教義と相反することから何度も異端裁判にかけられ、それでも自己の理論を訂正せずに我を通したことから最後は火あぶりの刑に処せられます。 続きを読む 無限宇宙を唱えたジョルダーノ・ブルーノ