災厄はつい、厄年とか不条理のせいにしてしまえば精神的に救われるところがあります。
これも災厄に対する不安感の隙間に入り込む根拠なき救済材料ですね。
そう考える前に、まず不条理と思われる災厄に関して原因を考えてみましょう。
たとえば男性の場合、厄年になってから家の中で頻繁にケガをするようになった、というようなケースでも、長年暮らしている家の中が少しずつ煩雑になり、物が溢れて身体がぶつかることが多くなったことが原因になっている可能性があります。 続きを読む 厄年は自分のことを冷静に見直す機会
災厄はつい、厄年とか不条理のせいにしてしまえば精神的に救われるところがあります。
これも災厄に対する不安感の隙間に入り込む根拠なき救済材料ですね。
そう考える前に、まず不条理と思われる災厄に関して原因を考えてみましょう。
たとえば男性の場合、厄年になってから家の中で頻繁にケガをするようになった、というようなケースでも、長年暮らしている家の中が少しずつ煩雑になり、物が溢れて身体がぶつかることが多くなったことが原因になっている可能性があります。 続きを読む 厄年は自分のことを冷静に見直す機会
現代社会に厄年を当てはめると、いささか軽い風習になりますが歴史だけは長く、すでに平安時代には厄年に関する記述があります。
平安時代末期の古辞書「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」には厄年の歳が表記されており、すでに貴族の間では厄年が常識として広まっていたことが分かります。
平安時代に厄年が広まった、と考えると、やはり中国からの伝来なのでは?と思いつくのは至極最もなことですが、中国の厄年は自分の生まれた干支が厄年となるので12年に1回、つまり日本の厄年とは異なっているので厄年は日本独自の風習であることが推察できますね。
そこで厄年の起源として有力視されているのが陰陽道です。 続きを読む 日本の厄年は陰陽道が発端
陰陽道は平安時代、いわば貴族以上が使っていた占いなので庶民にはほとんど関係ありません。
その厄年は陰陽道から始まったという説の有力候補は日本のいろは引きで最古の辞書と言われる「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に記述があるからですが・・
確かに漢字は厄と書かれているものの、男女における厄年の違いはなく、13、25、37、49、61…と12歳刻みで厄年が訪れるため、中国の生まれた干支が厄年というパターンと似通っています。
鎌倉時代でも厄年は平安時代を引き継いでおり、現在の厄年になるのは江戸時代になってからのこと。 続きを読む 色葉字類抄に記されていた厄年は役年?
前投稿では厄年の初出は平安時代の古辞書「 色葉字類抄(いろはじるいしょう)」ではあるけれど、現代に通じる厄年ではなく、社会的に重要な役目となる歳、役年ではないか、という説を記しました。
しかし江戸時代に入ると、それまでのあらゆる文化が庶民レベルで理解できるように変化しており、厄年に関してもその例外ではありません。
まず江戸時代で厄年が最初に出てくる著述は「和漢三才図会(わかんさんさいずかい)」です。
カンタンに言うと江戸時代の百科事典で、当時の中国、明(ミン)の類書「三才図会」を手本にして作られました。 続きを読む 江戸時代は和漢三才図会に登場
和漢三才図会に出てくる厄年は以下のように記述されています。
「厄~ 按素問陰陽二十五人篇云 件歳皆人之大忌 不可不自安也 考之初七歳以後皆加九年」
カンタンに言えば、陰陽では25歳がすべての人の大忌に当たり、誰もが注意しなさい、厄年は7歳に始まり、以後は9年を足していく、というような意味ですね。
この解説は明の三才図会が元になっており、上記の部分もそこから引用しているものです。中国では厄年を自分の干支から数えますが、明の時代の百科事典では陰陽発想から生まれていることが興味深いところです。 続きを読む 江戸時代に明記された厄年が現代まで継承されている
和漢三才図会は正德2年(1712)に刊行されていますが、それより遡ること約15年の元禄10年(1697年)頃、尾張藩士で国学者の天野信景(あまのさだかげ)は全千巻にも及ぶ随筆集「塩尻」で厄年に触れており、14巻には「42は四二になり、死に通ず、我が国では男42、女33、異邦7歳、16歳、34歳…」と著述しています。
直接に厄年、とは書いていませんが、ここで異邦7歳、と書いていることにより、和漢三才図会における厄年の7歳と合致するので厄年であることが伺えます。
ちなみに異邦とは中国のことですね。
ここで注目したいのは42歳がしに、と読めることから縁起が悪い、と言っていること。 続きを読む 男は42(しに)女は33(さんざん)の厄年
江戸時代、厄年に関するダブルミーニングをつけたのは 田宮仲宣だけではありません。
随筆家、林自見の「雑説嚢話(ざっせつのうわ)」には「俗に女は33を厄とする。女は産を大厄とすれば、33の産の声を重ねるが故、厄年とする」と書いています。
また考証随筆として有名な「燕石雑志(えんせきざっし)」になるとダブルミーニングだけでなく、その上に陰陽を重ねるという説得力を加えています。
たとえば「42歳は4も2も陰数であり、読んで死となることから男性はもっとも恐れ、33は陽数が重なり、事の敗続するのを散々といい、さんざんと同訓であるから女性はもっとも恐れる」との記述が見られます。 続きを読む 厄年に説得力をつけた陰陽説
前項で登場した「燕石雑志(えんせきざっし)」の著者は曲亭馬琴(きょくていばきん)という作家で、刊行したのは和漢三才図会よりも100年遅い文化8年(1811)です。
曲亭馬琴と聞いても分からない人は多いでしょうが、「南総里見八犬伝」の作者と聞けば思い当たる人もいるはず。
室町時代後期を舞台にした長編伝奇小説で、安房国里見家の伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八犬士の物語は現在で言うところのSF物語で、冒険的アニメの源流にもなっている活劇です。
曲亭馬琴は 燕石雑志を刊行後、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やし、その全体は98巻106冊から成立している大長編です。 続きを読む 燕石雑志と南総里見八犬伝は同じ作家
江戸時代の語呂合わせによるダブルミーニング、駄洒落の類は厄年だけでなく日常的な会話の中に取り入れられており、現代にも継承されているものがいくつもあります。
ここでは余談としてちょっと紹介しましょう。
たとえば物が壊れたり使えなくなったりした時、「オシャカになる」と言います。
このオシャカはご推察のようにお釈迦様のこと。
江戸時代の鍛冶屋が失敗作にこの言葉を用いました。
鋳物を作る時は当然、火を使いますが、この火が強いと鋳物は割れてしまいます。 続きを読む 「ひ」を「し」と発音する江戸っ子
現代に残る江戸時代の駄洒落、お次はドラ息子です。
怠惰で道楽好き、放蕩を続ける息子のことですが、これは金を使い果たす、つまり「金を尽く」を「鐘を突く」に引っ掛けて用いられるようになった言葉です。
江戸時代の遊郭、吉原では軒先に銅鑼をぶら下げておき、客が入ると景気づけで銅鑼をじゃんじゃんと鳴らしていました。
もちろんお寺には釣り鐘もありましたが、やはり放蕩息子には吉原の銅鑼の方がぴったりくることから「ドラ息子」になったわけです。
無実の罪を押し付けられる時「濡れ衣を着せられる」と言いますが、これも江戸時代の駄洒落、ダブルミーニングからきています。 続きを読む 蓑がないから雨で着物が濡れる
厄年っていうと何か悪いことが起きるんじゃないか、と考えがちで、毎年のように起きている悪いことも厄年に起きるとそれが特別の意味を持つと思ってしまう人もいるでしょう。
しかし厄年に良いことばかり起きている人もいるのです。
たとえば笑点の司会でお馴染みの春風亭昇太師匠。
一門の春風亭柳昇師匠に入門したのが男の最初の厄年となる満23歳(数えで25歳)でしたが、柳昇師匠がテレビを活動の舞台にすることが多かったことから、入門後、すぐにテレビ出演を許可され、当時はバブル絶頂期だったために仕事が次々に舞い込んだ、といいます。 続きを読む 厄年でも最高の歳を迎えた例
春風亭昇太師匠が入門したのは23歳だから厄年ではないでしょ?という疑問をお持ちの人に回答しましょう。
厄年は満年齢で数えるのではなく、女性の子宮内にいる時から計算する数え年になります。
したがって出産と同時に1歳となり、新年を迎えると2歳。
12月31日に生まれた赤ちゃんでも翌年の1月1日、つまり2日しか経っていなくても数え歳は2歳になるわけですね。
自分の年齢を言う時「今年の誕生日を迎えると◯◯歳です」という表現を使いますが、これに1歳足した歳が数え年の計算方法と覚えておけばいいでしょう。 続きを読む 厄年は数え年で計算する