ブルーノート東京が開店

ニューヨークにあるジャズクラブ、ブルーノートが東京にチェーン店を出したのは1988年11月、バブル景気真っ最中のことです。

それまで日本のジャズクラブは一部のジャズファン以外には敷居の高い存在で、いかにもジャズを聞かせます、それ以外はおとなしくしていてくださいね、的な雰囲気があり、それがまたジャズ初心者のハードルを高くしていた要因でもありました。

元々、ジャズミュージシャンは儲かる仕事ではありません。

ただし技術や感受性は一流。

そこでポピュラーのシンガーはレコーディングの際、ジャズミュージシャンにスタジオ演奏を依頼していた経緯があり、それを依頼されたジャズミュージシャンはポピュラーの軽快さをジャズに取り入れました。 続きを読む ブルーノート東京が開店

日本に誕生したメセナ活動の支援団体

バブル景気の時に発足したアメリカズカップ・シンジケートのメセナ活動は企業広告の意味合いも強かったので、景気縮小と同時に消滅してしまいましたが、その後も企業におけるメセナ活動は地道に、もっと一般的な人たちに密着した本来の形で継続されています。

このメセナ活動を支援する形で作られたのが純民間団体である公益社団法人の企業メセナ協議会で、1990年、バブル景気崩壊後に誕生しました。

「即効的な販売促進・広告宣伝効果を求めるのではなく、社会貢献の一環として行う芸術文化の支援」をメセナの定義とし、メセナ活動を行う企業の紹介やパイプ役、さらに企業が個別に行ってきた文化事業に対して個々の利害を超えた立場で支援していくという取り組みを行っています。

企業が文化活動を支援するという取り組み、じつはフランスやドイツ、アメリカなどでは当たり前のように行われており、それらを支援する団体も古くから存在しています。 続きを読む 日本に誕生したメセナ活動の支援団体

ニッポン・チャレンジが残した夢

アメリカズ・カップに参加したニッポン・チャレンジの結果は無駄だったのでしょうか?

バブル景気の余ったオカネを浪費しただけでしょうか?

そんなことはありません。

アメリカズ・カップ参加以降、日本のヨット製造技術は格段に進歩しました。

アメリカズ・カップのクルーは経験が要求されるだけに新興国は外国人クルーで固められるのが当たり前の中、ニッポン・チャレンジは積極的に日本人クルーを採用、2007年の大会ではニュージーランドチームに日本人の鹿取正信氏が参加、日本人初のアメリカズ・カップ本戦出場を果たしています。

ニッポン・チャレンジが残した結果はしっかりと正の遺産となって受け継がれています。 続きを読む ニッポン・チャレンジが残した夢

ニッポン・チャレンジ、遂に決勝進出を果たせず

オーストラリアに渡ったアメリカズ・カップを奪取すべく名乗りを挙げた日本。

なにしろ当時はオカネもあれば技術もあります。

ないのは経験だけ。

1992年は経験を積む年と決め込み、ニッポン・チャレンジというシンジケートを組織します。

オカネがあるといってもアメリカズ・カップへ参加し、対等に戦うためには最低でも40~50億円、その年の挑戦者となったイタリアは120~130億円の予算を持っていたといわれています。

先を急ぎましょう。

1992年、すでにバブル景気は崩壊していましたが、それでもニッポン・チャレンジはアメリカズ・カップに参戦、予選レースのルイ・ヴィトンカップで準決勝まで進みました。 続きを読む ニッポン・チャレンジ、遂に決勝進出を果たせず

アメリカズ・カップに日本が参加表明した理由

バブルの足音が聞こえるはずですが、アメリカズ・カップで寄り道しています。

さて、アメリカズ・カップを賭けたクラブ同士のヨットレースですが、先を急ぐと、とにかくアメリカが圧倒的に強く、各国の挑戦を退ける時代が長く続きました。

挑戦者の中には紅茶王のサー・トーマス・リプトン(30年の間に4回挑戦、いずれも敗退)、やフランスのボールペンを最初に作ったビックなどがいました。

この頃までは金持ちの道楽的ヨットレースでしたが、1983年、オーストラリアの実業家アラン・ボンド率いるオーストラリアⅡが初めてアメリカを打ち破ります。

アメリカズ・カップが南半球を渡ったことで、それまで金持ちの道楽的ヨットレースは富裕層を抱える先進国から一気に注目されます。 続きを読む アメリカズ・カップに日本が参加表明した理由

猫とツキと干支の性格

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