長男切腹を仕向けた信長に私財を投じて接待

「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」

信長のように百戦錬磨というわけではなく、また豊臣秀吉のように潤沢な財力で相手を圧倒させるわけでもなかった徳川家康が最期に天下人となれた理由は、やはり「忍耐力」でしょう。

信長、秀吉とは戦国大名として対等な立場でありながら正面から対抗することなく、臣下としての立場に甘んじていました。

もちろん信長も秀吉も家康の戦国武将としての高い資質を認めていたからこそ臣下にしたわけですが、両者ともかなりあくどい挑発的なことを家康に行っています。

たとえば信長。 続きを読む 長男切腹を仕向けた信長に私財を投じて接待

合戦の勝ち数と勝率はともにランキング外

「人は負けることを知りて、人より勝れり」

戦国武将の合戦における勝ち数、勝率は合戦の規模にもよるので一概には言えませんが、やはり勝ち数では織田信長や豊臣秀吉が圧倒的に多く、勝率では武田信玄や上杉謙信が上位にランクインします。

徳川家康は最終的に征夷大将軍となって全国を統一、約460年続く江戸時代の基礎を作り上げましたが、合戦においては勝ち数、勝率ともに名だたる戦国武将の中では下位に甘んじています。

徳川家康の敗戦の中でも有名なのが三方ヶ原の戦いです。 続きを読む 合戦の勝ち数と勝率はともにランキング外

井伊直政を高く評価していた徳川家康

戦国武将が「おんな城主 直虎」から離れつつあるので元に戻しましょう。

直虎が育てた井伊家の嫡男、虎松(のちの井伊直政)を小姓にした徳川家康の名言です。

「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある」

家康は家臣を高く評価することはあまりありませんでしたが直政は別格で、家康の三男で後継者となった秀忠の妻、お江に宛てた手紙の中で、「井伊直政という男は日頃こそ冷静沈着で口数が少なく何事も人に言わせて黙って聞いているが、局面では的確に意見を述べる。とくに自分が考え違いをしている時は余人がいないところで物柔らかに意見してくれる」と述べています。 続きを読む 井伊直政を高く評価していた徳川家康

秀吉の信長に対する見解とは?

「信長公は勇将であるが良将ではない。剛を持って柔に勝つことを知ってはおられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。ひとたび敵対した者に対しては、 怒りがいつまでも解けず、ことごとく根を断ち葉を枯らそうとされた。だから降伏する者をも誅殺した。これは人物器量が狭いためである。人には敬遠され、衆 から愛されることはない」

これも豊臣秀吉の名言のひとつです。

確かに信長は理想主義でプランを実現するための策には長じていましたが、配下との関係はビジネスライクであったことから高い信頼関係は築けず、また敵対する者の一家残党まで誅殺するのは将来的に謀反を起こさせないための措置でした。 続きを読む 秀吉の信長に対する見解とは?

20万以上の兵を集めて北条氏を征伐

「財産を貯め込むのは良い人材を牢に押し込むようなものだ、世が安らかになるのであれば、わしはいくらでも金を使う」

これも豊臣秀吉の名言ですね。

これを実際に行ったのが小田原征伐でしょう。

関東平定を行っていた北条家を倒せば、ほぼ全国統一を果たすことになった豊臣秀吉は傘下の諸大名を総動員、その数約20万という兵力を上げて北条家征伐に向かいます。

北条側も豊臣方が攻めてくることを予想、本丸の小田原城に関東武将の精鋭を集め、山中城や松井田城、韮山城など支城を固めますが、圧倒的な兵力に抵抗する術がなく、大軍進行からわずか2ヶ月余りで小田原城を陸と海から包囲、そのまま持久戦に持ち込み、約1ヶ月後に開城しました。 続きを読む 20万以上の兵を集めて北条氏を征伐

猫とツキと干支の性格

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