「バブル景気の足音」カテゴリーアーカイブ

世界最古のトロフィーを賭けた競技

バブル景気崩壊後、伝統あるアメリカズ・カップに挑戦した日本。

なにしろ日本、国土をぐるりと海が囲んでいる海洋国でありながら、海は漁師さんたちの物ですからちっともマリンレジャーが盛んになりません。

バブル景気になると富の象徴が車なんかではなくクルーザーになってきたものだから、マリンレジャーへ一気に熱い視線が向けられた、なんて背景も手伝い、いきなり世界最高峰のヨットレースに挑戦しよう、などという機運が高まったわけです。

世界最高峰だの伝統だの、といってもアメリカズ・カップのこと知らなければどれくらいの重みを持つヨットレースなのか分かりませんよね。

そこで少しアメリカズ・カップの紹介。

始まったのは1851年。 続きを読む 世界最古のトロフィーを賭けた競技

高さ69cmしかない至高の銀杯を賭けて

アメリカズ・カップ紹介の続きです。

さて、海洋王国の大英帝国に招かれ、余興であるワイト島一周レースに参加した新興国アメリカのアメリカ号、結果はご想像の通り、並みいる海洋王国イギリスのヨットを打ち負かしてしまったわけですね。

このレースを観戦していたヴィクトリア女王はお付きに訪ねます。

「先頭の船は見えますか?」

「はい、アメリカ号です」

「では二番手は?」

「我らが女王陛下、二番はございません」 続きを読む 高さ69cmしかない至高の銀杯を賭けて

アメリカズ・カップに日本が参加表明した理由

バブルの足音が聞こえるはずですが、アメリカズ・カップで寄り道しています。

さて、アメリカズ・カップを賭けたクラブ同士のヨットレースですが、先を急ぐと、とにかくアメリカが圧倒的に強く、各国の挑戦を退ける時代が長く続きました。

挑戦者の中には紅茶王のサー・トーマス・リプトン(30年の間に4回挑戦、いずれも敗退)、やフランスのボールペンを最初に作ったビックなどがいました。

この頃までは金持ちの道楽的ヨットレースでしたが、1983年、オーストラリアの実業家アラン・ボンド率いるオーストラリアⅡが初めてアメリカを打ち破ります。

アメリカズ・カップが南半球を渡ったことで、それまで金持ちの道楽的ヨットレースは富裕層を抱える先進国から一気に注目されます。 続きを読む アメリカズ・カップに日本が参加表明した理由

ニッポン・チャレンジ、遂に決勝進出を果たせず

オーストラリアに渡ったアメリカズ・カップを奪取すべく名乗りを挙げた日本。

なにしろ当時はオカネもあれば技術もあります。

ないのは経験だけ。

1992年は経験を積む年と決め込み、ニッポン・チャレンジというシンジケートを組織します。

オカネがあるといってもアメリカズ・カップへ参加し、対等に戦うためには最低でも40~50億円、その年の挑戦者となったイタリアは120~130億円の予算を持っていたといわれています。

先を急ぎましょう。

1992年、すでにバブル景気は崩壊していましたが、それでもニッポン・チャレンジはアメリカズ・カップに参戦、予選レースのルイ・ヴィトンカップで準決勝まで進みました。 続きを読む ニッポン・チャレンジ、遂に決勝進出を果たせず

ニッポン・チャレンジが残した夢

アメリカズ・カップに参加したニッポン・チャレンジの結果は無駄だったのでしょうか?

バブル景気の余ったオカネを浪費しただけでしょうか?

そんなことはありません。

アメリカズ・カップ参加以降、日本のヨット製造技術は格段に進歩しました。

アメリカズ・カップのクルーは経験が要求されるだけに新興国は外国人クルーで固められるのが当たり前の中、ニッポン・チャレンジは積極的に日本人クルーを採用、2007年の大会ではニュージーランドチームに日本人の鹿取正信氏が参加、日本人初のアメリカズ・カップ本戦出場を果たしています。

ニッポン・チャレンジが残した結果はしっかりと正の遺産となって受け継がれています。 続きを読む ニッポン・チャレンジが残した夢

日本に誕生したメセナ活動の支援団体

バブル景気の時に発足したアメリカズカップ・シンジケートのメセナ活動は企業広告の意味合いも強かったので、景気縮小と同時に消滅してしまいましたが、その後も企業におけるメセナ活動は地道に、もっと一般的な人たちに密着した本来の形で継続されています。

このメセナ活動を支援する形で作られたのが純民間団体である公益社団法人の企業メセナ協議会で、1990年、バブル景気崩壊後に誕生しました。

「即効的な販売促進・広告宣伝効果を求めるのではなく、社会貢献の一環として行う芸術文化の支援」をメセナの定義とし、メセナ活動を行う企業の紹介やパイプ役、さらに企業が個別に行ってきた文化事業に対して個々の利害を超えた立場で支援していくという取り組みを行っています。

企業が文化活動を支援するという取り組み、じつはフランスやドイツ、アメリカなどでは当たり前のように行われており、それらを支援する団体も古くから存在しています。 続きを読む 日本に誕生したメセナ活動の支援団体

ブルーノート東京が開店

ニューヨークにあるジャズクラブ、ブルーノートが東京にチェーン店を出したのは1988年11月、バブル景気真っ最中のことです。

それまで日本のジャズクラブは一部のジャズファン以外には敷居の高い存在で、いかにもジャズを聞かせます、それ以外はおとなしくしていてくださいね、的な雰囲気があり、それがまたジャズ初心者のハードルを高くしていた要因でもありました。

元々、ジャズミュージシャンは儲かる仕事ではありません。

ただし技術や感受性は一流。

そこでポピュラーのシンガーはレコーディングの際、ジャズミュージシャンにスタジオ演奏を依頼していた経緯があり、それを依頼されたジャズミュージシャンはポピュラーの軽快さをジャズに取り入れました。 続きを読む ブルーノート東京が開店

日本に深く浸透するフュージョンサウンド

1988年、青山に出店したジャズライブハウス、ブルーノートはその後、大阪や福岡にも出店しましたが、現在は青山以外に名古屋、それから横浜のモーションブルーヨコハマだけに留まっています。

当時、なぜ有名なフュージョンバンドを東京のライブハウスに呼べることができたのかといえば、もちろんバブル景気によるおかげでもありますが、フュージョン人気がもっとも高かったのは日本で、本国アメリカでは日本ほど稼げなかった、という現状がありました。

フュージョンは大きく分けてデイブ・グルーシンやリー・リトナーを中心とした西海岸派、リチャード・ティーやスティーブ・ガッドを中心とした東海岸派がありましたが、日本では西も東も関係なく、連日連夜、それらのミュージシャンが来日してくるのですから、ファンとしては狂喜乱舞の世界です。

この時代、日本のミュージシャンもフュージョンへの傾倒が多く見られ、また積極的にスタジオミュージシャンと共演しています。 続きを読む 日本に深く浸透するフュージョンサウンド

日本のCMにフュージョンバンドが出るという快挙

1990年代までフュージョンと呼ばれたジャズは現在、スムースジャズ(Smooth jazz)と名称を変えています。

歌詞のないインストゥルメンタルで聴きやすいことも日本で受けた要因のひとつでしょう。

この時代に流行ったフュージョンサウンドは今でもテレビ番組のBGMとして流れることがよくあります。

日本でもフュージョンバンドが多く誕生しました。

カシオペアやT-SQUARE、高中正義などはフュージョンバンドの代表格ですね。

バブル景気以降、フュージョンサウンドの魅力からジャズファンになった人も多くいます。 続きを読む 日本のCMにフュージョンバンドが出るという快挙

日本に集まった世界の名画

文化的側面で正の遺産を残してきたバブル景気ですが、残念なことに負の側面も残しています。

それが絵画投資ですね。

1987年、当時の安田火災海上保険(現在は損保ジャパン)はゴッホが描いた向日葵7点のうち、5作品目に当たる「ひまわり」を3992万1750ドル(当時のレートで約58億円)で購入しました。

オークション価格としては類を見ない高額で、相場の倍以上と言われています。

続いてF-1のスポンサードも行ったサーキット運営会社「オートポリス」がピカソの青の時代に描いた「ピエレットの婚礼」を89年に75億円で落札(この落札は当時、オートポリスの社長がサーキット開催の祝典を全日空ホテルで行い、そのパーティの最中にパリのオークションと衛星生中継で結んで落札したという、バブルの極みのような派手さが今でも語り草となっています)。 続きを読む 日本に集まった世界の名画

多くの人の目に焼きつくことがなかった名画たち

バブル景気の時代、世界的名画がオークションに出され、それらをジャパン・マネーが席巻しました。

相場よりも高い価格で落札する日本は異常、と世界中から批評されましたが、それ自体はたいしたことではありません。

第一次世界大戦でヨーロッパが経済的疲弊を抱えていた時、アメリカはまさにバブル景気真っ最中、狂騒の20年代と呼ばれていた時代で、ヨーロッパ市場に乗り込むためにヨーロッパの負債に大きな投資を実施、その際には経済的疲弊をいいことにヨーロッパの文化的遺産を大量に買い込んだことがありました。

要するにバブル景気で国内需要が賄えるようになった後は、どこの国でもやっていることは一緒ということですね。

しかも美術品は定価がありません。

どうしても欲しい絵画があり、他の人が100億円で購入を希望した時、101億円出しても買いたいとなれば、欲しい人に取って101億円の価値があるわけです。 続きを読む 多くの人の目に焼きつくことがなかった名画たち

やがて絵画は拡散していく

バブル景気によって一時は世界的名画が日本に集まりました。

その一部は今でも日本国内で展示されています。

安田火災が購入したゴッホの「ひまわり」とセザンヌの「りんごとナプキン」は東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館で、オートポリスが購入したボナールの「アンドレ・ボナール嬢の肖像」は愛媛県立美術館で、同じくオートポリス購入のシャガール「村の祭り」は高知県立美術館に収蔵されています。

しかし安田火災はバブル景気崩壊後、業界首位の東京海上火災保険への対抗心から吸収合併を繰り返して現在は損害保険ジャパン日本興亜という名称に変更、オートポリスは絵画購入からわずか3年後の1992年に倒産、齊藤了英氏は「死んだらゴッホやルノワールは棺桶に入れてもらうつもりだ」と言って世界中から文化度の低さを猛烈に批判されましたが、1996年に死去、絵画と一緒に暮らせたのはわずか10年の間でした。 続きを読む やがて絵画は拡散していく