富籤(宝くじ)が幕府公認になったのはいつ?

江戸時代の亨保15年というから1730年のこと、幕府は仁和寺(にんなじ)の門跡(もんせき)宅館修理の名目で富籤(または富突)を復活させました。

仁和寺は京都にある真言宗の総本山寺院で、門跡というのは皇族や公家が住職を務める特定の寺院のこと。

簡単に言うと位階の高い寺院の住職のために幕府公認で富籤(とみくじ)を行ったわけですね。

これを護国寺で3年連続して実施したことから、以後、富籤(とみくじ)は(官民が味をしめて)幕府公認による寺院の修復費用目的で開催されるようになりました。

公共事業とはほど遠い始まりですが、寺院を修復するというのは当時、公共事業に近い意味合いを持っていたため、幕府も後押ししたと考えられます。

ただし、不正が行われないように与力が抽籤(ちゅうせん)に立ち会いました。

たとえ寺院修復が目的でも当せんは金銭になったことから庶民の射幸心は一気に高まります。

谷中の感応寺、目黒の滝泉寺、湯島天神は江戸の三富と呼ばれるほど人気があったといいます。

倹約家松平定信による寛政の改革で富籤(とみくじ)の開催場所は江戸・京都・大阪の三ヶ所に限られ、興行回数は年3回に限られましたが、天保年間(1831~1845)に入ると再び活発化していきます。

この富籤(とみくじ)を再び粛清したのが天保の改革で知られる水野忠邦です。

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