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恐るべし、徳川家康!直江状、その後

名言とは少し離れますが、この直江兼続の行動がその後の関ヶ原の戦いへとつながるので、ちょっと脱線して。

さて、喧嘩を売られた徳川家康、激怒して上杉家に対し、会津征伐を実行します。

この機を逃さず、というか、家康の策にハマったといった方が正しいのか分かりませんが、動いたのは秀吉最大の家臣だった石田三成。

家康出兵後、大阪城西の丸を取り返し、さらに家康古参の家臣、鳥居元忠が守る伏見城を攻略すると家康の弾劾状を諸大名に交付します。

家康は会津征伐に関わった諸大名を集め、会津征伐から急遽、秀吉公に害を成す奸臣・三成の討伐を決定、1600年9月15日、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍による天下分け目の一戦、関が原の戦いが行われたのです。 続きを読む 恐るべし、徳川家康!直江状、その後

家康に喧嘩を売った文面

信長公が本能寺の変で森蘭丸に言った言葉、「是非に及ばず」は武士に取って欠かせぬ言葉のひとつですね。

どっちが良い悪いとか理由はともかく、やるならやるぜ!

と、まあ、そんな感じでしょうか。

豊臣秀吉の死後、最高権力者となった徳川家康の元に上杉家が謀反を起こす、という知らせが入ります。

徳川家康はことの真偽を確かめるために時の藩主、上杉景勝へ上洛を申し出ますが、景勝はこれを拒否、この時、家老の直江兼続は徳川家康に対して書簡を送ります。

世に言う「直江状」ですね。 続きを読む 家康に喧嘩を売った文面

本能寺の変で信長が言った言葉

「是非に及ばず」

織田信長の家臣、明智光秀が1582年、京都の本能寺に宿泊していた織田信長を襲った「本能寺の変」で、小姓の森蘭丸に信長が言った言葉です。

羽柴秀吉援護のために出陣した明智光秀が「敵は本能寺にあり」と宣言、引き連れていた兵1万のうち、約3000人だけを伴って明け方、本能寺を取り囲みます。

異変に気がついた信長公は小姓である森蘭丸に情報収集をさせると蘭丸は明智光秀の謀反の模様、と信長公に伝えた時、上記の言葉が出てきたわけですね。

この言葉、正式には「仕方がないこと」と解釈されていますが、信長公の言った意味は少し違うようです。 続きを読む 本能寺の変で信長が言った言葉

吾れ好敵手を失へり!上杉謙信

甲斐に武田信玄公がいれば越後には上杉謙信公がいます。

「吾れ好敵手を失へり。世に複たこれほどの英雄男子あらんや」

これは「日本外史」に記された上杉謙信の言葉で、食事中に武田信玄の死を聞いた謙信公は箸を落として号泣した、と言われています。

軍神と恐れられた謙信公と信玄公は5回に渡る川中島の戦いでライバル関係としてよく知られていますね。

そして謙信公と信玄公のエピソードで有名なのが塩を送る話。 続きを読む 吾れ好敵手を失へり!上杉謙信

情けは味方、仇は敵なり!武田信玄

三角大福という政治の戦国時代の話が出たので、実際の日本の戦国時代に残された名言をご紹介しましょう。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

信濃一帯を治めた甲斐守護職、武田信玄が戦略・戦術をまとめた「甲陽軍鑑」に記した言葉です。

戦国時代の居城は実践的な作りが多く、江戸時代に入ってからの、大名の象徴のような作りとは違いますが、武田信玄は生涯、城を作らず躑躅ヶ崎館(つつじがさきかん)という屋敷に住み、頼りになるのは城ではなく人、という理念を貫きました。 続きを読む 情けは味方、仇は敵なり!武田信玄